神作タイプの丙申―病のサイコパス、ソ連、スターリンの大粛清を行ったベリア
ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ

ソビエト連邦の政治家。
ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。
彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。
「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、
自らも粛清に加担した。スターリンの死後は第一副首相として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、
ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。
【生い立ち】
ロシア帝国時代のグルジアにて、小作農パーヴェル・カフカハエヴィチ・ベリヤの息子として生まれる。
ベリヤはグルジアの少数民族ミングレル人であり、グルジア正教会の一家で育ち、またその会員であった。
母マルタ・イワノヴナは未婚女性で、ベリヤの父パーヴェルと結婚する前に夫を亡くしている。
政治活動
1919年、ベリヤはアゼルバイジャン民主共和国にて保安業務の仕事に就く。1920年、ウラジーミル・レーニンが創設した
秘密警察・チェーカーに加わる。当時、グルジア民主共和国にて、赤軍に後押しされたボリシェヴィキ党員による反乱と、
赤軍によるグルジア侵略が勃発した。メンシェビキ(少数派)党員による敗北に終わったこの戦争には、
チェーカーが深く関与していた。ベリヤはグルジアやアゼルバイジャンにて、反革命分子の抹殺に辣腕を振るう。
1922年にはチェーカーの後身であるGPUのグルジア支部長代理に就任し、1926年には正式に支部長となる。
同年にはグルジアのOGPU長官にもなった。同年、グルジアの出身であるスターリンに初めて会見して目をかけられるようになった。
以来、彼はスターリンと同盟を組み、共産党およびソヴィエト政権内で実力者となっていく。1924年8月のグルジアでの
民族主義者による暴動において、ベリヤは最大で10000人の同胞の人々を処刑し、反乱を鎮圧させた。
1934年にスターリンによる権力の掌握、共産党と政府による粛清が始まると、ベリヤはトランスコーカサスでの粛清を開始した。
彼は政情不穏なトランスコーカサス共和国において、かつての怨恨を晴らすために、この粛清の機会を利用したのである。
1937年6月、彼は演説で「人民の意志、レーニンとスターリンの党の意志に反抗を企てる者たちは
容赦なく粉砕されるであろうことを、我々は敵に知らしめねばならない」と述べた。
【大粛清(大テロル)】
1938年8月、スターリンはNKVDの議長代理としてベリヤをモスクワに送り込んだ。
NKVDはソヴィエト連邦の治安と警察権力を統轄する組織であった。
当時NKVDは、内務人民委員部の長官ニコライ・エジョフのもと、数百万人もの人々に及んだ大粛清として知られる
「ソヴィエト連邦と人民の敵(とみなされた者)」の告発活動に従事していたが、粛清が余りに過剰であったため、
ソヴィエト国家、経済、軍隊の基盤にダメージをもたらした。スターリンによる大粛清の最中、
スターリンは粛清の実行者であったエジョフを遠ざけるようになり、代わってベリヤが1938年8月22日に
エジョフの内務人民委員代理に任命され、徐々にエジョフに代わって粛清の指揮をとるようになる。
11月25日には正式にエジョフが内務人民委員を解任されてベリヤが内務人民委員となり、
エジョフやその配下の機関員たちを粛清して、大粛清の総仕上げにあたった。スターリンは、
(エジョフによる)粛清の行き過ぎを抑える決定を下し、11月にはエジョフの後任としてNKVDの議長となった。
(エジョフは1940年にベリヤの部下に尋問され、銃殺刑に処された)。
また、NKVDの人員たちも粛清され、人員の半数が、コーカサス出身のベリヤに忠実な人物と入れ替わった
1941年2月には人民委員会議副議長(副首相)に就任、独ソ戦中もこの職にあった。彼の配属下にあった部隊は前線で
脱走兵の処刑やスパイの摘発などで力を奮った。また、北カフカス地方に赤軍とNKVDを派遣しクリミア・タタール人
その他国内の対独協力の嫌疑をかけられたドイツ系少数民族の強制移住を実行。その過程で多くの死者を出し、
足手まといになる住民は問答無用に殺害しスターリンから要求された期限を厳守した。
さらに、彼は悪名高いカティンの森事件の首謀者であり、シベリア抑留など外国人捕虜を収容する収容所を管轄する最高責任者でもあった。
カティンの森事件とは・・・・・Wikiより
第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が
ソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。
「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。
対独戦終結後の1945年7月9日にソ連邦元帥の階級を得て、翌1946年3月にはソ連共産党政治局員となる。
≪恩人スターリンを毒殺≫

1953年3月1日、スターリンは、フルシチョフ、マレンコフ、ブルガーニン、ベリヤとの徹夜での夕食の夜に倒れ、その4日後の3月5日に死去した。1993年に出版されたモロトフの政治回顧録によると、ベリヤはモロトフに対し、スターリンに毒を盛ったことを自慢したとされる。
ロシアの作家エドワード・ラジンスキーの著書『スターリン』にもこのことは記述されており、公表される兆候もあったという。モロトフの回顧録は、新たに公開された膨大なロシアの機密文書、スターリンの元ボディガードが出版した回想録、その他のデータに基づいたものである。
スターリンが意識不明の状態で発見されてから数時間、医師の助けが拒否されたことが報告されている。2006年、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館でスターリン暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。
その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。
ベリヤ失脚の経緯については、多くの異説がある。最新の研究によると、1953年6月26日、フルシチョフは政治局会を招集し、同会合において、「ベリヤが英国諜報機関に雇われていた」と攻撃し始めた。
完全に不意を突かれたベリヤは「一体何が始まるんだね?」と尋ねた。モロトフやほかの政治局員もベリヤを非難し、フルシチョフがベリヤの即時解任の動議を提案すると、マレンコフが机のボタンを押した。
これは近くの部屋で待機していた元帥のゲオルギー・ジューコフと、その他の軍人たちへの合図であった。
彼らはすぐに部屋に殺到し、ベリヤを「国家反逆罪容疑」で逮捕した。ジューコフたちにより、NKVDがベリヤの逮捕に反対しないことは確実となった。
【最期】
同年12月、ベリヤらの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」
と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。
モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。
しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日に銃殺刑に処された。
ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。54歳没。
漁色と性的暴行
1953年6月のベリヤの逮捕後の裁判で、ベリヤによる著しい件数の強姦と性的暴行が明らかになった。
ベリヤは大変な漁色家であり、誘惑を断ったが最後、その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。
暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致しては暴行する悪行を繰り返した。
流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたため被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。
ある夜、ベリヤは通行人である未成年の女性をいつものように車に乗せ、本部に連行した後解放した。
女性は帰宅しても何があったか両親に話そうとせず、結局その事件を苦に自殺してしまった。遺体を解剖した医師によれば、
彼女の体にははっきりと暴行された形跡が見られたという。彼女の父親はベリヤの護衛を務めた警備隊長で、
のちにベリヤが政争に敗れて処刑される際には処刑の執行人となりたいと嘆願したが、政府から「私刑は認められない」
という理由で要望は聞き入れられなかった。また、米国の外交官と交際していた女性にベリヤが迫ったところ、
ひどく嫌がられ関係を拒否されたため、彼は「収容所の埃となれ!」と言い放ち「米国のスパイ」という罪状で彼女を強制収容所送りにしてしまった。
ベリヤに対するこれら非難は近年まではソヴィエト連邦内外の政敵によるプロパガンダとして片付けられていたが、
ベリヤが女性を暴行し、政治的な犠牲者を私的に拷問し、殺害していたという疑惑は歴史的な証拠を得つつある。
ベリヤの性的暴行、性的サディズムの最初の嫌疑は、1953年7月10日のベリヤ逮捕の2週間後に党中央委員会本会議において
1980年代には、ベリヤが10代の女性たちを強姦したという噂まで出始めた。
ベリヤの伝記を著したアントン・オフセーエンコはあるインタビューにおいて、ベリヤが複数の若い女性たちの中から1人をレイプするために選び出す際、彼女たちに強いたといわれる明らかに倒錯した行為について語っている。
命式を見てみましょう。
四柱推命鑑定|ラブレンチー・ベリヤ


【辰巳空亡】
≪丙申―病タイプだが、頭の良い「神作譲」、数学の得意なサイコパス≫
・十二運を上から見ると、絶、沐浴、病、帝旺で身弱です。
・日柱の上干は、3月生まれの丙(太陽)です。未だ気温が低いです。旬の季節ではないので、月令は得ていません。
・命式の構造自体は、強くありません。申と亥が害「がい」を形成します。「落下運」の暗示です。
スターリンの権力と庇護をかさに着て、命令とは言え、無辜の民をジェノサイド(大量殺戮)しました。「恐怖」をちらつかせて、数えきれない強姦や、児童の性虐待をしました。
しかし、庇護者のスターリンまで毒殺して、後ろ盾を自ら無くして、最後は失脚し、銃殺されました。
処刑の前に、泣いて命乞いしたと言われていますが、罪もない善良な市民を身勝手に殺したサイコパスには同様の醜態を晒すものが見受けられます。
4人を殺しておいて、死刑執行の時は、大暴れして抵抗した永山則夫、今回のオウム幹部の執行の時も、「宣告」されたら、
腰を抜かしたものがいたそうです。
・この害「がい」のために、天乙貴人が死んでしまいました。
・1個の偏官と2個の劫財がパワーラインを二重に形成します。
それで、あれだけ「大きな人類史に残る大虐殺」をやってのけることが出たのでしょう。
≪印星殺の成立≫
先天の命式に、偏印が2個、印綬が1個で印星殺の成立です。
≪食傷過多の成立≫
先天の命式に、傷官3個で、食傷過多の成立です。
★「印星殺」と「食傷過多」が同時に成立すると、光母子殺人事件の福田孝行や、この事件の主犯の宮野同様「サイコパス認定」です。
ベリアが銃殺された日の行運(大運、年運、月運、日運)を見てみましょう。
・53年 癸巳丙―空亡 正官 比肩・・・劫殺、駅馬2個
・12月 甲子癸 偏印 正官・・・羊刃、血刃、白虎殺2個
・23日 戊申庚 食神 偏財・・・劫殺2個、駅馬2個
空亡の年、外部からの物理的攻撃を受ける劫殺が巡ってきます。
12月、殺気の星の羊刃、不慮の事故の白虎殺が2個も巡ってきます。印星殺持ちに、お約束の偏印の月です。
血刃も巡ってきます。命式の時柱に羊刃が有ります。時柱の干支は甲午で午です。
この午と冲「ちゅう」または支合を形成する行運(大運、年運、月運、日運)
が巡ってくると、不慮の災厄に遭いやすいです。丁度、12月は子の月ですから、時柱とは子―午の冲「ちゅう」が成立します。
23日、暴力を受ける劫殺が2個巡ってきます。駅馬も2個きます。
従って、【血刃&駅馬の魔のペア】が4組成立します。ベリアは、人類史に残る悪行を償うことになったのです。
以上