ロシア帝国⑥皇女オリガ

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ロシア帝国⑥皇女・オリガ・ニコラエヴナ・ロマノヴァ

1895年 11月15日

ロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第1子として誕生。

第一皇女。ロシア大公女。

1917年

二月革命で成立した臨時政府によって家族と共に監禁された。

翌1918年7月17日

十月革命で権力を掌握したウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキの命を受けたチェーカー(秘密警察)によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、エカテリンブルクのイパチェフ館において家族・従者と共に銃殺された。

1982年

正教会で聖人(新致命者)。

風貌

金髪の波状毛に明るい青の瞳、いかにも賢そうな広く突き出た額をしていた。

妹のタチアナ皇女やマリア皇女ほど美しくはないと一般的に見なされていたが、母親の友人であったリリ・デーンは「平均よりやや背が高く、健康的な顔色、濃い青色の目、明るい栗色の髪の毛の量、可愛らしい手と足の持ち主だった」と表現し、15歳の頃のオリガは明らかに美しかったと書いた。

あらゆる面で才能を発揮する教養の深い皇女だったと言われる。

アナスタシア皇女も含め、4皇女はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた。

父親似と言われ、また彼女も父を深く慕っていた。頑固で意志が強く情け深い性格であったが、一方で粗野で率直過ぎる面もあった。

そのためか、母のアレクサンドラ皇后とは反りが合わなかったと言われる。文学少女であり姉妹の中では最も賢く、複雑なロシア語の文法も説明出来た。乗馬を嗜み、騎馬隊長を務めた事もあった。

ルーマニア王太子カロル(後のカロル2世)及びイギリス王太子エドワード(後のエドワード8世、ウィンザー公)との縁談もあったが、オリガ自身は「私はロシア人だからロシアに残りたい」と、外国の王族とは結婚する気が無く、結果家族の悲劇に巻き込まれてしまった。

また、オリガはカロルが好きではなく、1914年春にルーマニアを訪れた時はカロルと世間話をするのに苦労した。

カロルの母親のマリア王妃もオリガの性格を無愛想過ぎるとして、彼女の頬骨の高い顔も「可愛くない」と言い、あまり良い印象を持っていなかった。

また、一説ではニコライは自身の従弟にあたるドミトリー大公と彼女を結婚させるつもりであったとも言われる。

また彼女は、グリゴリー・ラスプーチンの葬儀に家族内で唯一出席しなかったと言われる。ドミトリーとフェリックス・ユスポフがラスプーチンを殺害した時に一家から殺人者が出た事を恥じていた。オリガはこれより前から兵役を退避したユスポフを軽蔑していた。

 

四柱推命鑑定命式|オリガ・ニコラエブナ

 

【総合鑑定】惨劇を逃れるチャンスを自ら放棄した皇女

十二運を見ると、衰、絶、長生、胎で身弱です。

11月生まれの丙(太陽)ですから、北風に吹かれるので、旬ではありません。よって月令は得ていません。

年柱の未と時柱の子が害「がい」を形成します。両親不仲の暗示です。

この害「がい」のために天乙貴人が死んでしまいました。

正官と偏官が混在するので、官殺混合の成立です。官殺混合で同時に命式に偏印が有ると、命式全体の凶意が増します。天徳貴人と月徳貴人のペアが有るので、天乙貴人に相当します。

4皇女の長女で、適齢期だったので、ルーマニア王か、イギリス王かどちらかと結婚していたら、惨劇から、逃れられたでしょう。

外部からの攻撃の劫殺が有ります。囚獄は最後の3か月閉じ込められたイパチェフ館のことでしょう。不慮の事故の白虎殺があります。

 

《印星殺の成立》

印綬が2個、偏印が2個有ります。印星殺の成立です。

亡くなった22歳の大運は、己丑―傷官―養で、けじめをつけられる厳しい傷官の10年でした。

亡くなった日の行運を見てみましょう。

1918年07月17日

・18年 戊午丁 食神 劫財・・・羊刃

・07月 己未己 傷官 傷官・・・羊刃2個

・17日 乙丑己 印綬 傷官・・・羊刃

1918年は羊刃が巡ってきます。

7月は厳しい傷官月です。己未の未が大運の丑と冲「ちゅう」をけいせいします。不吉です。殺気の星羊刃が2個も巡ってきます。

17日もけじめをつけられる傷官の日運で、お約束の印綬が巡ってきます。羊刃も来ました。

 

ルーマニアの大公や、エドワード王子(のちの8世)と、政略結婚を受け入れて、外国の王族貴族と結婚していれば、粛正から逃れて助かった率が高いです。英国と縁組していれば、政治的な圧力と諜報により、ほかの家族も救出された可能性もあるでしょう。

縁戚のジョージ5世、エドワード8世や、両親の皇帝夫妻もそうでしたが、オリガ皇女も、個人的な「好き」「嫌い」「私は、こうしたい」「私は、こうありたい」で人生を選択しました。

肝心の父親が恋愛結婚をし、かつ、皇后の力が強かったため、「お前はロシア皇女なのだから、ロシアのための結婚をしなくてはならない」とびしりと言って聞かせることができませんでした。

欧州王族の家元のような存在だったヴィクトリア女王の「家庭第一」パーソナリティに影響されているのかもしれませんが、王族として国や家の為に生きるのではなく、一般人と同じ自由を求めていた、この時代の欧州貴族の雰囲気がわかります。

その後、多くの帝国や王室が倒れていきましたが、その要因の一つの柱が、社会制度の背骨である王家・王族の性質が変容したことではないでしょうか。公人であるはずの王族が、一般人のように私的感情を優先して人生を選択する生き方にかわった結果、帝国や王国が解体へむかっていたのかもしれません。

以上

 

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